キリスト教の信者立ちは大きな主張があります。それは今イエス様は生きているということです。この人は2000年前に十 字架に張り付けられて殺されたのに、今日私たちがこの人は一緒におられると宣言しています。イエス様が復活したということ は他の人には納得させがたいです。でも、多分それは私たちの役割ではないと思います。私たちの役割はイエス様の存在を現代 の世に探すことですイエス様はこの世のどこにおられるのか。

私の個人の経験の中ではイエス様は四つのところに現れています

@イエス様は貧しい人たちと共に存在しています。
@また共同体の中に
@また孤独の中に
@そして私たちの現代の世の状況にイエス様は現れているのです。

まず、イエス様は貧しい人たちと共に存在しているという殊について話しましょう。復活ということは間違った審判被害者で あるイエスが神様に助けられたこと立証するものです。現代の貧しい人たちは良く考えてみれば現代の経済システムの被害者で す。この人たちは貧しいつもりないけれどただの些細な役のようなもので経済の駒として使われているのです。 この人たちは大き名力もないし、英雄もいないし、神様しか頼るものがないのです。この人たちのためにはイエス様は今も大きな存在なので す。この人たちの信仰についての話を聞くとイエス様は彼らと共にいると感じています。

また、イエス様は共同体の中にいる。イエス様に従う人たちがいなかったら、イエス様は殺されることはなかったのです。殺さ れた原因は弟子たちを集めたからだと言えます。一つの目的に違っている人たちを導いたからなのです。共同体の中に同じよ うな一つの目的、つまり神の国を実現するという目的が見えると私たちもイエス様の教えた人間に対しての尊重を感じます。 何となく互いに尊重し合うことによりイエス様が始めた神の国は今まで存在仔し続けていると感じています。イエス様がいる限り 神様の国の雰囲気を感じるのです。

イエス様が孤独の中にいる。共同体の中と孤独の中にイエス様が存在しているというのは矛盾しています。でも深く考えたら。 他の人を尊重するのは、自分との違いを認めないとできないことです。共同体の中にお互いに尊重するということは自分の存在 意義を見つける必要があるのです。それは一人一人は神様からそれぞれの恵みを受けたのです。

しかし自分の人生の目的や使命がないと神様が自分を愛して下さるのがなかなか見えません。でも清書を読むといつもイエス 様の招きによって自分の人生の目的も少しずつ分かります。現代の世に神様の招きはあまり聞こえません。何か目標を決めて もそれは自分からか、あるいは物質的社会からの招きなのです。この招きから自分の存在意義を失う子とは簡単名のです。だ から自分は何のために存在しているのかという孤独の中の質問中にイエス様の招きも聞こえるのです。 最後にこの現代の世にイエス様の存在があるのです。それは確かだということは現代を理解しなければ言う事ができません。 では現代の世は何ですか。

@一つは、この世は物質を追い求めています
@また個人主義の世です
@そして現代は存在意義を失っている世です。

イエス様は私たちの信仰によるとこの世に、この世の救いのために殺されたのです。このイエス様は本当に復活したと信じた ら、私たちが死んだら彼に会うと言うことではなくて、この物質的、個人主義、と存在意義を失っている世界に神様の存在を 探すべきなのです。そうすると、私たちも初期のクリスチャンたちと同じようにイエス様が私たちの中にいると宣言すること ができるでしょう