私は六ヶ月の間和歌山の新宮にある「わかばえん」という施設でボランテイアとし障害者の人たちと一緒に働きました。私はそ の時まだ日本語がよく分からなかった上に彼らも話すことは不自由で、なかなか会話がうまくかみ合いませんでした。話すこと が難しい人と知り合ったとしたら今日の福音の中の「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにし てくださる。」ということが実際にあったら、いいと思いますね。一方、この話を聞くとそれが本当にイエス様によってなされ たのかどうか。この世にないことなのではないかと思います。
イエス様の時代にそういう障害を持っている人たちは社会の中で差別されました。罪を受けてそのようになったのだと考えたか らでした。障害を持った人たちは自分を表すことができませんでした。つまり心を傾けて聞いてくれる人がいないから、自分を 表現できなかったのです。私たちの現代の世の中で弱い人、障害を持っている人を私たちと同じではないと思ってしまいがちで す。私たちの言葉がこの人たちには通じないと思ってしまいます。かわいそう、気の毒からこの人たちが私たちと同じではない と考えてしまいます。

この人たちは食べさせてくれる人はいなかったら生きていけない、面倒を見る人がいなかったら、生きていけない、だから弱い 人たちだと考えてしまいます。でも私たちも他の人の働きがなかったら生きていけないでしょ。漁師と農家の人たちのおかげで 、食べものがある。着るものも誰かの働きに助けられているのです。このように私たちも他の人の助けがなければ生きていけな いのです。障害者の人たちと同じように。

障害を持っている人はコミュニケシュンがとれないと考えてしまいます。でも私たちも言葉を話すことができても、相手を受け 入れなければ本物のコミュシュンもできないことがあるでしょ。障害を持つ人たちにコミュニケションを押し付けようと私たち はします。私たちのしているコミュニケションいいことですか。たとえば原子爆弾などの悪い物を作るとたくさんのコミュニケ ションを使っているでしょう。コミュニケションそのものはいいものとは限りません。

今日の福音でせっかく耳が聞こえるようになり、口が聞けるようになった人にイエス様は「誰にもこのことを話してはいけない 」と止めされました。イエス様のいやしはただ耳が聞こえたり口が利けるようになることだけではなく。神様の愛を伝えるコミ ュニケションをしたいということです。それは言葉だけで表現できません。

わかばえんでの送別会の時みなは私に抱きついて泣いていました。言葉はなくてもこの人たちの感謝の気持ちの「ありがとう」 は私の耳に大きく聞こえました。