あるフィリピンの詩でこう言っています。愛が人間の心の中に宿りその愛に従うと時として他の人や物に対 する見方が変わることが* ります。愛する人ができるとその人以外の物は全て意味を持たくなり価値がなく なってしまう。愛は恐ろし物でもあるのですね。ある時は愛によって家族や、自分、友達や、将来を壊して しまうこともあります。

このフィリピンの詩の中で愛は心の中に入ると表現されました。つまり私たちが愛を探して見つけるのでは なく、愛の方が私たちの心に入り込んでくる。と描かれています。愛は私たちの自由を奪います、私たちは 愛の奴隷になってしまいます。

テレビマス・コミでは愛は認められる物、自分にいいもの、愛が* ったら自分が幸せになる、愛のためなら 、どんな暴力でも許されるなどと取り上げられています。愛によっ家族を壊れ、愛によって自由を奪われ、 愛によって傷つく。そうだったら愛はいいものですか。

今日の福音の中で「愛」という言葉がいくつあるか数えましょう…愛という言葉は9回出てきました。今日 の福音に書いてある愛と先に話した愛とどのように違うのでしょうか?

違いの一つは愛は私たちのところに来るのではなくて、「愛しなさい」つまり私たちの方から愛を放ちなさ いということです。

もう一つの違いはこのこの福音の愛は掟に関係があります。「父が私を愛されたように、私の父の掟を守り 、その愛にとどまっている、あなたがたも、私の掟を守るなら私の愛にとどまっていることになる。」深く 考えたら、掟の意味はそれぞれの物価値を尊重することなのです。愛は全ての物の価値が変わることではな くて、全ての物のあり方が分かるようになるのです。

現代の社会の中で夫たちは妻や子供達のために働きます。これは愛ですね。しかし一歩職場や社会に行くと 競争の世界です。仲間をけおとしてても自分の地位やお金のために働きます。これは愛と言えるでしょうか 。家族を支えるために環境破壊をしている会社に勤める。また、武器を作っている会社に勤める。それは愛 でしょうか。

ヨハネのとても短い手紙の中に10回も「愛」という言葉が書かれています。間違いなく神の愛はこの世の ため、すべての物のためです。フィリピンの詩で医言っているように自分と自分の関わりのある人にだけ向 けられたような愛ではなく、全ての物をあるがままに受け入れることが愛なのです。